見えない痛み、どう受け止める?


「元気そうに見えるけど、大丈夫?」

そう言われたとき、思わず笑ってしまった。

うん、大丈夫。――そう答える以外の選択肢が、もうわからなかった。

目に見える傷なら、手当ての方法もわかる。

痛がっても、誰かが気づいてくれる。

でも、心の中にあるものは、見えない。

どれだけ痛くても、どこに触れられても、「気のせい」や「甘え」にすり替えられてしまうことがある。

何に傷ついたのか、自分でもわからないまま、ただ、胸の奥にずっと小さな痛みが残っている。

息を吸うだけで苦しい日もある。

理由があるようで、ないような、説明のしようがない痛み。

たとえば――

街の喧騒の中でふと感じる取り残されたような空虚さ。

誰かの優しさを受け取るのが、なぜか怖い瞬間。

ふと目が合っただけなのに、急に心がざわつく場面。

そういう“理由にならない場面”にこそ、心の中に長く沈んでいた痛みが、そっと浮かび上がってくる。

でも、その痛みには、たいてい言葉がない。

うまく語れないまま、誰にも見せられないまま、ずっと抱えつづけてきた感覚。

それは、冷たい水の底に、沈んだままの石のように微動だにせず、静かにそこにいる。

どう受け止めればいいのか、わからないまま、ただ一緒にいるしかなかった痛み。

誰かに話せたら、少しは違ったかもしれない。

でも、話そうとすると喉の奥がつまってしまう。

伝えようとするたびに、「どうせわかってもらえない」と思ってしまう。

そのたびに、

「こんなことでつらいなんて、情けない」

「もっとがんばってる人だっているのに」

そんな内なる声が、さらに痛みを重ねていく。

でも――

ほんとうは、その痛みに“名前をつける”ことも、“意味を持たせる”ことも、必ずしも必要ではないのかもしれない。

ただ、そこにあるということ。ちゃんと痛んでいるということ。

それだけを、やさしく確かめることができたなら。それだけでも、充分なことかもしれない。

もし今、胸の奥で、言葉にならない痛みがふとよぎる瞬間があったら、無理に追い出さず、否定もせず、ただ「そうか」とそっと見つめてみてもいい。

その痛みが、語りかけてくる声に、ほんの少しでも耳を傾けてみてもいい。

痛みは、ただの苦しみじゃない。

その奥に、ずっと言えなかったこと、耐えてきたこと、誰にも見せなかった自分のかけらがある。

それは、かすかに輝く、小さな命の記憶のようなものかもしれない。