時間がすべてを癒してくれる…ほんとうに?
「時間が経てば、きっと癒えるよ」
そう言われたとき、胸の奥で小さな息遣いが詰まった。
周囲の空気は静かに凍りつき、指先からじわりと冷たさが広がった。
どこかで、ひとすじの安堵と同時に、深い孤独が重くのしかかった。
―― ほんとうに、それだけで癒えるのなら …
なぜ、自分はまだ、こんなにも、痛いのだろう?
優しさから向けられた言葉だと、わかっている。
でもその言葉は、霧の向こうで反響する遠い声のようで、心の芯には届かなかった。
まるで、いちばん感じてほしい場所だけ、誰にも見えず、冷たく閉ざされているかのように。
「時間」だけでは届かない場所がある
痛みには種類がある。
忘れてしまえる痛みと、忘れられない何か、そのものが痛みになるようなものと。
「もう昔のこと」と言い聞かせて過ぎてきた時間の中で、ふいに胸の奥に熱のような痛みが走り、息が詰まる瞬間が何度も訪れる。
窓の外で風が揺らす木々のざわめき、遠くでかすかに響く鳥の鳴き声。
そのささやかな音や匂いに、封じ込めた記憶が呼び起こされ、形を変えて浮かび上がる。
呼吸は浅くなり、手のひらがじっとりと冷える。胸の奥で静かに鳴り響く警報に、体中がざわつく。
それは、心がずっと抱えてきた、未消化の痛みの膿(うみ)かもしれない。
放っておいたら、じわりじわりと化膿が進んでいくような ……
癒しとは、「なかったことにする」ではない
ほんとうの癒しとは、「何もなかった自分」に戻ろうとする先にあるのだろうか?
むしろその逆で、ずっと蓋(ふた)をしていたものの存在を、風がそっと肌をなでるように、静かに認めてところからではないのだろうか。
過去を浄化するのではなく、そのままの過去とともに、今を生き直していく過程。
触れられずにいた記憶に、自分の手でそっと光をあてるとき、そこにようやく、深くゆったりとした呼吸の余地が生まれる。
そして気づく。自然と。
痛みは消えるためにある、のではないのかもしれない。
生き延びたサバイバーの証として、その存在が静かにそこにとどまっているのだと。
傷を抱えながら生きる…ところから、何かが視えてくる…と感じて
心に深く残る傷とは、生きることを諦めなかった記憶のかたちだ。
誰かを、本当に何よりも愛したとき。
必死に守ろうと、もがいたとき。
声を押しころして泣いた、あの夜。
ひとりきりで、冷え切った部屋の中、朝を迎えて茫然としたあの日。
それらすべてが、いまも、確かに息づいている。
だからこそ、誰にも理解されなくても、その傷を持っている自分を、いちばん最初に、ご自身がやさしく抱きしめてあげてほしい。
たとえ、涙が枯れるほど泣けなかったとしても、何も感じられない日が続いたとしても、それでも内側では、何かが静かに続いている。
終わらなかった痛みは、終わらせる必要のなかった、何かだったのかもしれない。
ほんとうの光は、痛みの奥でしか出逢えない
癒しは、きっと、どこか遠くからやってくるものではないように思える。
それは、今日の自分にそっと触れる、微かな選択の積み重ねではないだろうか。
- 無理に笑おうとしない、あり方。
- 小さな違和感を見過ごさない、こころの動き。
- 冷えた手を胸にあて、ゆっくり息を吸い込むひととき。
- 誰にも伝えられなかった感情に、「ここで、いていいよ」と語りかける時間。
それは、他人にはわからないほど小さな出来事かもしれない。
けれど、その小さな出来事が、心の奥で静かに積もっていく。
やがて、ある朝、ひんやりとした空気の中で、ふと気づく。
「この重さを、前よりもほんの少し、抱えられる気がする」と。
それから。
ほんとうの光は、どこまでも静かに、いちばん奥深くへと差し込んでくる。
それは派手な希望の光ではないし、ましてや、センセーショナルなネオンの光などでもない。
直視すると目が焼けてしまう太陽のように、まぶしくもなく、静かすぎて誰かに気づかれることもない。
…… ただ、確かにある。
何度も拒絶され、忘れられ、それでもなお灯り続ける ……
命の根源に近い場所から、そっと、滲み出るように ……
見ようとしなかった場所に、ようやく触れることができたとき ──
そのときこそ、癒しの扉は音もなく、本当に、そっと、開き始めるのかもしれない ──