自分自身を見つめ直したくない――その心の奥に宿る静かな祈り

朝の光が窓辺からゆっくり差し込み、部屋の隅に積もった埃をそっと浮かび上がらせる。

そんな穏やかな日常の中で、ふと立ち止まり鏡の前に立つ。

鏡の中の自分のまなざしが、普段は見過ごしていた何かを映し出すようで、じっと見つめることに胸の奥がざわつく瞬間 ──

そこに映るのは、ただの顔や表情ではなく、時に自分でも気づいていない深い感情や記憶の欠片。

無意識のうちに目を逸らすその瞬間に、見たくないもの、触れたくない影が揺らめくのを感じ取っている。

その怖さは、まるで懐かしい風景の中にひっそりと隠された、忘れられた過去の欠片を発見してしまったかのよう。

「自分自身を見つめ直す」という営みは、多くの人が人生の成長や癒しのために必要だとされてきました。

しかし、その言葉の裏に潜むのは、心の深層に眠る痛みや葛藤に敢えて向き合うという、並大抵でない勇気と覚悟の要求なのです。

じっと自分の内側を探り、薄暗い心の影を直視する行為は、時に心の奥を冷たい水で満たすような冷ややかな感覚すら伴います。

触れたくない「痛み」の背景とその重さ …

過去の断片は、時に思いもよらぬかたちで、心に刻み込まれています。

たとえば、誰かを傷つけてしまった瞬間の鈍い胸の痛み、約束を破ってしまった後悔の熱、

自分で説明できないけれど心の隅でずっとこだましている自己否定の声。

その記憶は、まるで時を経て石のように硬くなり、私たちの感情の深い層で重く沈んでいます。

浮かび上がらせるときの痛みは、体の内側から冷えや熱を感じるようにリアルで、心の柔らかい部分が裂けるような感覚に襲われるときも、もしかしたら珍しくないかもしれません。

けれども、そうした心の裂け目にこそ、今の自分が苦しみながらも生き続けている証があります。

その痛みを避け、ふたをしてきた時間が長ければ長いほど、自分自身の心は、その痛みを包み込むために自ら防護壁を築き上げているかもしれません。

そうして、その壁を壊し、ふたを開けて中を覗き込むには、ただの勇気だけでなく、心の傷を耐えしのぐ強さと、それを支える安心できる居場所、さらには自身の存在を肯定し続ける土台が不可欠となってきます。

心の中に抱えるその痛みは、私たちを苦しめるだけでなく、一方で自分自身の尊さや、人としての厚みを形作る素材にもなっている。

だからこそ、今はまだその箱を開けられない自分がいても、それは決して「逃げ」や「弱さ」ではなく、自己防衛としての正当な選択肢なのだと、自分自身に優しく寄り添う営みが必要だと、私は実感させられます。

変化を恐れる心、その根底にある感情

「変わる」という言葉は、しばしば解放や成長をイメージさせる一方で、知らず知らずのうちに心の奥底では、変化がもたらす喪失や不安に怯える声も存在しています。

人は、自分が長年築き上げてきた居場所や、慣れ親しんだ自分の像を壊すことに対して、無意識に強い拒絶反応を示します。

「これまでの生き方が間違いだったかもしれない」――

そんな疑念が心に忍び寄るとき、同時に「今の安定を失いたくない」という切実な欲求も、同時に芽生えます。

この葛藤は、まるで秋の風に吹かれ揺れる木の葉のように、揺れ動く心の振幅となって表れます。

「変わりたくない」という気持ちは、現状を守るための防波堤であり、私たちの深い心の安寧を守るための最後の砦でもあるのです。

だからこそ、変化を怖れるあまりに「このままがいい」と自分に言い聞かせる瞬間は、決して怠慢や弱さではなく、失うことへの恐怖と向き合う、心の繊細な防御反応として尊重されてもいいと、私は思います。

見つめ直さなくてもいい、という許容

人生には、光が差し込むときがある一方で、まだ薄暗く閉ざされた空間で息を潜める時期もあります。

自分と向き合うのが難しいと感じるその瞬間は、心が自然と身を守るための防護本能を発動させている時期かもしれません。

だから、無理に自分の心の奥深くを暴こうとせず、むしろ「いまはそれをしなくていい」と自分自身に許しを与えることは、心の安定を保つための重要な選択でもあります。

そんなとき、ただそっと寄り添い、受け止めてくれる誰かの存在があるだけで、心は少しずつほぐれていくものです。

「変わらなきゃ」・「気づかなきゃ」と焦燥にかられるよりも、今この瞬間に存在している「あなた自身」を、丸ごと認めてくれる温かな視線。

それは、枯れた大地にじんわりと染み込む雨のように、ゆっくりと深く、心の奥の乾きを癒していきます。

そしてもしも、いつか静かな風が自分の内側をそっと吹き抜け、「もう一度、自分と向き合ってみようかな」と思える日が訪れたなら、その時が、はじめて「見つめ直す」という行為が本来の意味を帯びる瞬間なのだと、私は信じています。

さいごに:見つめ直す営みは、「愛」の深いかたち

自分を責める行為と、自分を見つめる営みは、表面上は似ているように見えながら、その根底にある心の動きはまったく異なります。

責めるプロセスは痛みの中で自分を追い詰め、閉ざしてしまう行為ですが、見つめ直すプロセスは痛みを抱えつつも、その痛みに触れながら自分を大切にしようとする、深く豊かな愛情の表現です。

だからこそ、まだ触れたくない自分の影があっても、それは決して悪いものではないと思います。

むしろそれは、傷ついた心が自分を守ろうとする誠実な証。

見つめ直すことに迷いや恐れが伴うとき、その奥には必ず、壊れたくない・失いたくないという祈りが静かに息づいています。

そんな心の声を聞き取りながら、焦らずに、ゆっくりと、自分のペースで心の扉を開けていくことができたら。

もしかしたら、それこそが、真の「愛」の形で、深い自己肯定の始まりなのかも…しれない…とも思えたりします。

「愛」が何かなんて、私にはわからないですけどね。


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