触れられない温もりに…

空気が重たく淀んでいた。まるで、世界そのものが息を止めているような夜。
雨は止んでいたが、まだ部屋の中には湿った匂いが漂っていた。
古い木材の香りに混じって、微かな土の匂い。
胸の奥まで染み込むような冷たさの中、彼女は灯りをつけないまま、ソファにうずくまっていた。
カーテンの隙間から入り込む街灯の明かりが、彼女の肩をぼんやり照らしていた。
ときおり、肩がピクリと震える。
泣いているのか、寒さのせいか、自分でもわからない。
「……もう、いい加減にしてって、自分に言い聞かせてきたのに」
かすれた声が漏れた。
「まだ、こんなふうに、涙が出るんだね……」
その声は、自分の耳にも届かないほど小さく、けれど心の奥を鋭く刺す刃だった。
手元には、破れかけた封筒。何度も折られた跡のある便箋。
震える手でそれを広げるたびに、紙の音が部屋に響いた。
胸の奥がキリキリと痛んだ。胃のあたりに鈍い圧がかかって、吐き気すら覚える。
「何が、“大切に思ってる”だよ……だったら、なんで、置いていったの……」
声が震え、喉が詰まり、言葉にならない嗚咽が喉の奥でせき止められた。





涙はすでに流れていない。目の奥が乾いて痛い。
けれどその痛みが、唯一“生きている”ことを示していた。
胸の中央を、鋭利な刃物で静かに裂かれるような感覚。
「わたし、こんなに頑張ったのに。ずっと、黙って、我慢して、笑って……」
「それなのに……」
「なんで、わたしだけ、こんなに苦しまなきゃいけないの……?」
指の関節が白くなるほど、クッションを強く握りしめた。爪が生地に食い込む。
そのまま吐き出せずにいた感情が、うっすらと声になり始める。
「置いてかないでって、一言も言えなかった……」
「言えば、もっと惨めになる気がして……だから……」
言葉の最後は、呼吸の中に消えた。





ふと、彼女は立ち上がった。足元がふらついた。
世界が少し斜めに傾いたような感覚。
心の軸が壊れていることに、身体がようやく気づき始めていた。
キッチンのシンクに、まだあの人が最後に使ったコップが残っていた。
乾いた唇が歪む。笑ったのか、泣いたのか、自分でもわからなかった。
「……捨てられないんだよ、バカみたいでしょ……」
「こんなもの、見てるだけで苦しくなるのに、まだ……手放せないの」
冷たいシンクに手を置いた瞬間、掌から体の奥へ冷気がしみ込んだ。
心の中にあった“あなた”が、また一つ遠ざかっていくような感覚に襲われた。
喉の奥がギュッと締まり、声が出せなくなった。
肋骨の内側を、痛みが這いずり回る。
「愛してるって……言ってよ」
「一度でいいから、ちゃんと、心から、わたしのことを――」
沈黙。
部屋の中にはもう何もない。返ってくる声もない。
彼女は床に崩れ落ちた。冷たいフローリングの感触が背中に伝わる。
まるで世界から切り離されたような、誰にも見つからない場所にいるような気がした。
「なんで、こんなに苦しいの……」
その問いに、誰も答えなかった。
ただ、自分の鼓動の音だけが、胸の奥でこだまし続けていた。
―あの人に触れたときの温もりも、すでに思い出せないほどに遠い。
けれど、それでもまだ“愛している”自分が、ここにいる。
その現実が、彼女を絶望させる…





※ 本記事の内容は、特定の個人やセッションの事例ではありません。記載名称はすべて架空のものです。
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