感じきる営みが、こころの奥とつながるとき

ほんわか倶楽部の「そっと こころの聴き旅」をご一緒いただき、ありがとうございます。

まずは、この「こころの聴き旅」のこれまでのお便り一覧を、いつでもご覧いただける場所のご案内です。

日々の生活の中でふと立ち止まったときや、静かな時間が訪れたときに、心の中の声をたどり直すためのやさしい灯火となるようにまとめています。

「こころの聴き旅」のこれまでのお便り一覧

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前回の便りでは、こころの声にそっと気づく、日々の中のやさしい時間について、ご一緒にたどってみました。

今回は、その「こころの声」をさらに奥へと辿っていく、大切な営み ──

感情を感じきるという体験について、少し深く見つめてみたいと思います。

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ふだん、私たちは多くの感情を抱えながら暮らしています。

うれしい、悲しい、寂しい、腹が立つ、不安、ほっとする……

言葉になるものもあれば、名前のつかない、にじむような感覚もあるでしょう。

けれど、その感情のすべてを、まっすぐに感じることは、案外むずかしいものです。

たとえば、「悲しい」と感じていても、すぐに元気にならなきゃ、と思ったり。

「怒っている」自分をどこかで否定してしまったり。

「こんなことで落ち込むなんて」と、感情そのものを押し込めてしまったり ──

わたしたちは、気づかぬうちに「感じきる前に、感情をまとめようとしている」ときがあります。

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でも、ほんとうの意味でこころの声に触れるには、まず、その感情をまるごと、感じきる時間が必要です。

それは、なにか特別なやり方をすることではなく、ただ、そこにあるものを、否定も判断もせずに、そのまま受けとめてみるという姿勢。

「いま、胸の奥にあるこの重たい感じは、なんだろう…」

「なんだか、ザワザワする…でも、どうしてかはわからない…」

「涙が出そうだけど、理由はわからない…」

そんなふうに、まだ言葉になっていない感情の「感触」を、まるで両手でそっと包み込むように、ただ感じてみる。

それは、ジェンドリンの「フォーカシング」でいうところのフェルトセンス(felt sense)──

こころとからだが一体となって湧き上がる、微細で奥深い体感的な気配。

そこにふれる時間こそが、自分自身との関係を少しずつ、やわらかく編み直していく出発点となります。

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感じきるというのは、たとえば「悲しみを分析すること」でも、「涙を流すこと」そのものでもありません。

それは、「ただそこにある感じを、まるごと抱えている」ような静かな在り方。

ときには涙が出るかもしれないし、ときには、何も感じられないままの空白のような時間が続くかもしれません。

でも、そのどちらも、「感じきる営み」の一部です。

じっくり味わっていくうちに、こころの奥に、ぽつんと隠れていた「ほんとうの思い」が、ふと顔をのぞかせるときがあります。

「ほんとうは、悲しかったんだ」

「ほんとうは、わかってほしかったんだ」

「ほんとうは、怖かったんだ」──

その気づきは、頭での理解ではなく、からだごと感じる実感としてやってきます。

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この感じきるプロセスは、感情を浄化することでも、手放すことでもなく、むしろ「そこに在ってよかったんだ」と、感情そのものの居場所をつくっていく作業です。

すると、いままで見えなかった景色が、少しずつ見えてきます。

感情は「敵」ではなく、「知らせ」に変わり、わたしの内側と対話する小さな扉になっていきます。

だからこそ、感情を感じきるという営みは、「こころの奥とつながる」ための、静かで確かな道なのです。

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今週、もし少しでも時間が取れそうなときがあれば、呼吸をゆったりと感じながら、自分のこころの中にある「言葉にならない気配」に、そっと意識を向けてみてください。

なにか、はっきりした答えを求めなくてもかまいません。

ただ、「ここにある感じ」を、そのまま感じてみる。

それだけで、こころは、ゆっくりと応えてくれるようになります。

次回は、そんな「感情との関係性」を、もっとやさしくしていくための「自分に優しくなるための言葉と感覚」について、ご一緒していきますね。

また、お便りいたします。

今日も、こころに、そっと、やさしさの灯が灯りますように ──