「── 傷ついた語りの記憶」から

扉が ほんの少しだけ

話しても、いいよ──そんな言葉が、かつてわたしの耳に触れた。

その声は、遠くの森のざわめきのように、そっと耳の奥をくすぐった。

湿った空気の中に混じる、木の葉のかすかな香りとともに。

あの日、部屋の隅で聞いたその響きは、まるで静かな風が、閉ざされていた扉の隙間をそっと揺らすようだった…。

わたしの心の中に、小さな羽根がふわりと触れたような感覚があった。

「少しだけ、話してみようかな」――

その気持ちは勇気というより、祈りに近くて、やわらかく、でも切実だった…。

話したら、もしかすると何かが変わるかもしれない。

深く張りつめていた胸のあたりが、ほんの少しだけ、ふっと軽くなるかもしれない。

沈んだ心の奥で、何かがそっとほぐれていくかもしれない。

その期待は、鮮やかな花の香りのように確かなものではなかったけれど、それでも、触れてみたかった。

絵の名前を すり替えられたとき

だけど、差し出した声は、わたしの意図とはまったく違う形で返ってきた。

返ってきた……というより、まるで無理やりねじ曲げられ、知らない名前を貼られたように感じた。

「それって、つらかったんじゃなくて、甘えてただけだよね」

「あなたにも、悪い面があったんじゃないの？」

「そういうの、被害者ぶってるようにしか聞こえないよ」

「昔のことをいつまでも引きずって、意味あるの？」

「そんなの、誰だって通ってきてることじゃない？」

その言葉は、その言葉は、乾いた砂の上に落ちる、黒っぽい石のように冷たくて硬かった。

薄い氷を素足で踏んだときに、一瞬の温度差で肌が裂けるような、見えない痛みがじわっと染みてくるような感覚がする…

やっと、小さく開いた心の傷口に、乾いた砂を無理やり擦りこまれるような、そんな感覚。

声に耳を向けるどころか、むしろその声をつぶすように、理屈の刃を差し込まれたよう……

それは、話そうとした意志がパキンと壊れただけでなく、「信じたい」と思った、かすかな希望のような感覚も砕けた音にならない音。

自分の感情を見せることは禁じられたのだと、まるで冷たい風が背中を押すように、拒絶され、否定された感覚が体中を走った。

こころを発するのは、こんなに怖いのか ──

聴いてくれると思っていたのに、どうしてこんなに痛むのだろう…。

沈黙の中で 少しずつ

その日以来、言葉を声にして紡ぐのが、より怖くなった…。

話そうとすると、喉の奥にむにゅと押しつぶすような感触が現れて、心臓の鼓動がキュッと締まり胸に響き渡る。

言葉を探しているうちに、時間だけが刻々と過ぎていき、気づけば口を閉ざす関わり方が安全地帯になった。

あのとき感じた痛みが、氷の膜のように体を覆い、話すとまた割れてしまうかもしれないと、危険信号を感じるほうが増えていった。

沈黙は、冷たい壁のようでいて、同時に柔らかな毛布のようにわたしを包んでくれた。

でも、その毛布の内側で、心は縮こまり震えて、どこか奥のほうで怒りすらも感じ始めてしまっていた。

まるで冷たい秋風に吹かれながら襟を立てて、なぜこんなに身に刺さるのだろうと哀しく苛立っているようなような、そんな感覚。

それでも消えなかった 何か

それでも、ときどき思う…。

もし、あの言葉が違う形で返ってきていたなら…？

温かな焚き火の煙の匂いのように心に届いていたなら、また話す行為を恐れずに済んだかもしれない。

声にならなかった想いが、まだ、どこかでふわふわ揺れている ──

言葉になりたがっていて、でもまだ震えているような…。

「語ってもいい」と思えるには、越えなければならない痛みがたくさんある。

けれど、その痛みを… 解ろうとするよりも、伴に感じられる存在がいたなら、

わからないけれども、もしかしたら、もう一度、語ってみたいと願うかもしれない…。

崩れたものの中に、まだ拾い集められる破片があって。

そのひとつひとつに、耳を澄ませてくれるなら、もしかしたら ……

その時、本当に話したかったことばを、やっと、そっと差し出せるのかもしれないし、違うのかもしれない。

わたしのまま、わたしの言葉のまま、ちゃんと受け止めてくれるなら ──

▫︎ 問いかけミニワーク

• あなたは、これまでに「話さなきゃよくなかった」と思った瞬間はありますか？
• 逆に、「聴いてもらえてよかった」と感じたときは？
• 今のあなたなら、誰かの語りに、どんな言葉を返したいと思いますか？

▫︎ 小さな試みの安全リスト｜普段の日常の中で語り直すために …

• 最初に「今は、ただ聴いてほしいだけ」と伝えることもできる。
• 自分の中で「ここまでなら大丈夫」という境界線を決める。
• 準備ができていないと感じられる時は、無理に話さない。
• 無理に話そうとしない選択を、あたたかく赦してあげる自分との対話を試みる。
• 沈黙の「質」を感じてみる ―― 聴いてくれている沈黙か、それとも置き去りにされている沈黙か。
• 語る方法は話すだけじゃない。書くこと、描くこと、歌うこと……自由に選んでいい。

そっと こころを抱きとめる場所

本当に話したかった想いを、やっと、そっと ことばにしていける……

もし、そんな場所があるのなら……

話すそのプロセスのなかで、ほんの少しだけ心が軽くなったり、

忘れていた自分自身を、ふっと取り戻せるような、そんな瞬間が訪れるなら ……

もし、そんな時が、いつか訪れればと願う方へ ――

ここは、そんな「話せる場所」として、当事者感覚を大事にひとつひとつ紡ぎ、磨き続けられてきました。

まだ言葉がうまく紡げなくても、まとまりきらなくても、

そのままのあなたを、こころでそっと抱きとめる場所と空気 ――

無理に何かを求めたり、解決に急いだりしなくてもいい、

ただ、静かに寄り添いながら、あなたがあなたでいられる、そんな場所 ――

── 私たち、ほんわか倶楽部は、そんなやわらかな居場所であり続けます。