聴かれなかった痛みとともに

心の旅路

夕暮れのすれ違い

リビングに、じわりと夕暮れの色がにじんできた。

窓の外では、橙と紫が交じり合いながら、一日の終わりを告げている。

いや、告げようとしているだけかもしれない。

Aさんは、ソファに深く腰を下ろし、言葉を探すようにしてから、そっと口を開いた。

「……最近、ちょっと、しんどくてさ」

その声には、わずかな震えがあった。微かだけれど、確かに。

自分でも気づかないくらいの、かすかなゆらぎ。

いや、気づいていたのかもしれない。ただ、それを見ないようにしていただけで。

隣に座る人は、スマートフォンから目を離すこともなく、指先だけが忙しく動いていた。

「そうなんだ」

返ってきたのは、それだけ。

Aさんの顔が、ほんの一瞬だけ歪んだ。

それを見ていたのは、テーブルの木目だけだった。

「もっと話したいことがあるんだけど…」

もう一度、口にしてみる。

言葉にしてしまうことで、少しは軽くなるかもしれないと思って。

でも返ってきたのは、あくびと一緒に吐き出された声。

「またそんな話？ もう聞き飽きたよ」

その声には、うんざりとした響きだけでなく、どこかひどく疲れたような色も混じっていた。

Aさんは、それには気づかなかった。いや、気づく余裕がなかった。

――刃。

言葉は、ときに刃になる。そう思った。見えないけれど、確かに胸を貫く、冷たい刃。

Aさんの表情から、すうっと力が抜け落ちていった。

唇がかすかに震えたあと、ゆっくりと閉じていく。

「……そうだよね」

声は、ガラスの破片のように喉に引っかかり、かすれてほとんど音にならなかった。

肩がわずかに揺れた。寒いわけじゃないのに。

いや、寒かったのかもしれない。心が。

胸の奥がざらついて、胃のあたりが、鉛のように重たく沈んでいく……

部屋に、拒絶の匂いがする冷たい沈黙が満ちていった。それはただ音が無いのではない。

何かを押しころすための、意思を持った静寂だった。

時計の秒針だけが、やけに響いていた。

カチ……カチ……と、薄暗い部屋に、時間だけが取り残されていた。

無力感の繰り返し ──

夜が、深くなる。部屋の空気は重く、澱んでいた。

Aさんは、もう一度だけ、声を振り絞った。

「本当はね、もっと、話したいことがあるんだ」

その声は、自分でも驚くほど弱々しく響いた。

そばにいる人の目は、画面の向こう側にある。

その瞳には、光の粒が映っているだけで、Aさんの姿はどこにもなかった。

返ってきたのは、無関心を隠しきれない「そうなんだ」という一言だけ。

その一言は、風に飛ばされて消えてしまう砂の粒のように、Aさんの心には届かなかった。

いや、届いたけれど、ただ通り過ぎていった。

言葉が、喉の奥でつかえる。失語の沈黙。

自分の内側から溢れ出す、重く、息苦しい静けさ ──

海の水のように、じわじわと満ちてきて、思考までをも麻痺させていく。

胸の中に石を押し込まれたような、鈍い圧迫感 ……

「どうして、届かないんだろう」

その思いは、声にならず、焦りとなって胸の奥で渦を巻いた。

何度も、何度も繰り返してきた感覚。

ぶつかっては砕ける波のように、言葉は意味をなさず、ただ無力感だけが心を蝕んでいく。

「どうして、聴いてもらえないんだろう」

声に出せない問いは、喉の奥で石のように硬くなっていた。

それでも、まだ、どんなに消そうとしても消えない声が…あった。

けれど、その声も、繰り返されるすれ違いの中で、少しずつ、少しずつすり減っていくのも感じていた。

まるで、魂がすり減っていくかのように ……

痛みの在り処

ある日の夕暮れ。空の色が、まるで洗いすぎた布のように白茶けていく。

Aさんは、ひとり、部屋の隅で膝を抱えていた。

胸の中で、いくつもの感情が嵐のように渦巻いている。

「伝わらない」という、あの鋭い痛み……

心に突き刺さった言葉のトゲは、抜けないまま、疼き続けている。

過去のやりとりが、フィルムのように頭の中を駆け巡った。

話をしても、いつも相手の目はどこか遠くにあった。

声は宙を彷徨い、足元に落ちて消える。そのたびに、自分を責めた。

「もっと上手く話せていれば」

「私が、弱いからだ」

それはもう、Aさん自身の声ではなかった。

痛みが自分の中で生み出した、空虚な反響音のように、ただ呪文のように繰り返していた。

けれど…

ふと、乾いた土に水が染み込むように、別の考えがよぎった。

――待って。

――本当に、私だけのせいだった？

聴く側にも、事情があったのかもしれない。余裕がなかったのかもしれない。

その気づきは、厚い雲の隙間から一瞬だけ差し込む、冬の午後の陽射しのようだった。

すべてを照らすにはあまりに弱いが、確かにそこにある光。

その光が、自分の足元に濃い影を落としていることにも、Aさんは気づいていた。

「私のせいだけじゃ、ないんだ」

責め続けてきた自分を、少しだけ許す。

この傷は、自分ひとりの責任ではないのだと。

ぽっかりと空いた心の穴に、かすかな温かさが滲んでいくのを感じた。

痛みはまだ、そこにある。けれど、その痛みの在り処が、少しだけ変わった気がした。

見えない砦

春の朝。光は、あまりに無垢で、少しだけ残酷だった。

カーテンの隙間から差し込む一筋の光が、部屋の埃をきらきらと照らし出す。

Aさんは、深く息を吸い込み、自分の内側を静かに見つめていた。

傷つくたびに、一枚、また一枚と、冷たく硬質なガラスの壁を築いていた自分に気づいた。

それは、誰にも触れさせないための、そして自分自身が外に出られないための、静かな場所。

「もう、これ以上は」

その思いが、壁を厚くし、高くしていた。

痛みや弱さを閉じ込めるためのその場所は、ひどく孤独だったけれど、同時に自分を守る最後のシェルターでもあったのだ。

部屋の隅で丸くなる猫の、穏やかな寝息が聞こえる。

ふと、心が緩んだ。

壁をつくった自分を、責めることはできなかった。

それは、嵐の中で必死に扉を押さえるような、切実な行為だったのだから。

それはもう、ただ自分を閉じ込める冷たいガラスではない。

長い時間をかけて苔むした石垣のように、自分という存在の輪郭を守ってきた、歴史そのものなのだとも思えた。

自分が、ここにいることを守るための、大切な砦だったのだと。

そう思った朝、厚い壁の向こう側で、何かが、ほんの少しだけ芽吹いたような気がした。

私が聴くということ

真冬の夜。

外では雪がしんしんと降り積もり、世界からすべての音が吸い取られていくような季節になってきた。

Aさんは、両手で包んだマグカップの温かさを感じながら、初めて、自分の内側へと耳を澄ませた。

これまでずっと、誰かに「聴いてほしい」と願っていた。

その願いは空回りし、心は凍てつくだけだった。

けれど、違ったのかもしれない。

「傾聴」とは、誰かの声を待つものではない。

私が、私の声を聴き返す営み。それもまた、傾聴だったのだ。

胸の奥、壁の内側で、小さく震えている声。

忘れられていた地下水脈のような、か細いけれど絶えることのない響き──

その声を、自分で拾い上げ、抱きしめる、自分との関わり方。

「聴いてもらえなかった痛み」は、外から与えられたものだけではなかった。

自分自身が、自分の内なる声に、耳を塞いでいた痛みでもあったのだ。

受容の沈黙。

誰かから与えられるのではない、自分が選び取る、温かな静寂の中で、Aさんはゆっくりと、自分の声を受け止め始めた。

マグカップの湯気が、冷えた指先を、そして心の芯を、じんわりと温めていく。

その温かさに、厚い壁の氷が解け、地下水脈の声が、ようやく自分の耳に届き始めたのを感じた。

痛みと歩む

秋の午後。

陽射しは金色に熟し、すべてのものに優しい影を与えていた。

Aさんは窓辺に座り、風に揺れる葉の音に耳を傾けている。

痛みは、消えない。

胸の奥で、熾火のように静かに、赤くくすぶり続けている。

でも、もう歩みを止めることはないのかもしれないし、いつでも歩みを止めるのかもしれない。

ただ、痛みと伴に生きる、という関わり方を、受け入れ始めてはいると感じている。

「完璧じゃなくて、いい」

その言葉は、誰かに言われたものではない。自分自身が、自分に贈る言葉だった。

時折、胸が締め付けられるように、キュウゥと軋むように痛む。

そのたびに、息を止め、痛みが通り過ぎるのを、しばし呆然と待つ……

そして、それが自分の一部なのだと、自分の声で、自分に言い聞かせる。

痛みもまた、自分を形つくる声のひとつなのだと、そう感じられるようになっていた。

もう、見ないふりはしない。逃げようとしても、追いかけてくるのだし…

険しい道かもしれない。それでも、自分のペースで歩んでいく。

痛みを抱えたまま、一歩、また一歩と……

歩みを止めない自分が、今、ここにいる。

過去を抱きしめて

深い夜。冷たい冬の風が、窓をカタカタと揺らしていた。

Aさんは、目を閉じ、呼吸を整えながら、過去の記憶の海に静かに潜っていく。

幼い頃から、ずっと…

わかってもらえなかった無数の瞬間が、あの砦の礎（いしずえ）となって、心の底に固く積もっていた。

「どうして、あの時…」

問いは、答えのない闇に吸い込まれて痛切に消える。

けれど、その闇の底で、Aさんは小さな通し穴を見つけた。

それは、傷つき、壁の最深部に閉じ込められていた、過去の自分自身が放つ、かすかで細いけれども確かな光だった。

言葉にできず、ただ痛みに震えていた、小さな私。

「わかってもらえなかった私も、私だったんだ」

そう思った瞬間、凍てついた心の奥で、何かが少しだけ、ぽろりと剥がれ落ちる音にならないような音を感じる。

過去の傷を否定しない。なかったことにもしない。

ただ、そっと抱きしめる…/

そうするプロセスで、今の自分が、少しずつ自由になっていくように、少しずつじわりじわりと感じていた。

重たい鎖が、ひとつ、またひとつと解けていくかのように──

声を取り戻す

新緑が目にまぶしい、春の朝。

柔らかな風が、苔むした砦の重い扉を、ためらうようにそっと押し開けた。

外の光が差し込み、内側に閉じ込めていた声たちが、まるで冬眠から覚めた生き物のように、ざわめき始める。

これまで押しころしてきた感情が、土から顔を出す新芽のように、じんわりと少しずつ姿を現してくるような感じがする。

声にならなかった言葉たちが、オレンジに近い赤色の温度感を持って、小さく震えながらも確かに…

※ この物語はフィクションであり、心の記憶を元にした創作です。

登場する人物・団体名はすべて架空であり、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。