戻れないという贈り物
「あの頃の自分に戻れたらいいのにね」
そんな言葉をこぼした夜があった。
あなたはそのとき、静かに首を横に振った。
「戻らないほうが、良い時もあるんだよ」
その声は、風に濡れた木の葉のように震えていて、でも確かな重みを帯びていた。
「トラウマは、教科書の中の言葉じゃない。」
それは、ある日突然、世界が裏返るような瞬間かもしれない。
たとえば、信じていたものに裏切られたとき。
たとえば、大切な人がいなくなったとき。
あるいは、自分の声が誰にも届かないと知ったとき。
その瞬間から、私たちはもはや「以前の自分」には戻れない。
ほんとうの意味では傷が消えるわけではないし、たとえ言葉巧みに「消えたふり」をしても、奥のほうで何かが囁いている。
傷とともに生きるという経験は、決して軽く扱えるものではない。
時には、その重みが心を押し潰しそうになり、全てを投げ出したくなる瞬間もある。
だけど、その傷は私たちの一部であり、そこから目をそらすことは、自分自身の大切な断片を否定することと似ている。
それは敗北ではなく、ゆっくりと時間をかけて、新しい生き方の形を紡ぎなおす、はじまりだ。
心が砕けたその先で、私たちはどう生きるかを選んでいく。
破片を見つめて泣き続けるか、それとも、それらを繋ぎ合わせて新しい器をつくるか。
うまくできない日もある。
コーヒーの香りに救われる日もあれば、夜の静けさが、かえって胸を締めつけるように感じる瞬間もある。
そんな夜には、猫たちがそっと近づいてくる。
お姉ちゃん猫は私のひざにちょこんと乗り、妹猫はすぐ横で体を丸める。
窓の外には、月の光がベランダの鉢植えにやさしく降りている。
そんな時のために、私は小さなリストを作っている。
猫たちのぬくもり。お気に入りの音楽や映像。
呼吸を深くする場所。瞑想。ストレッチ。
読み返すと没入できる本。
これだけではないけれど…
そして昔から、書くという営みが静かな灯りのように寄り添ってくれている。
感情の輪郭をノートに書き留めると、心の中で渦巻いていたものが、少しだけかたちを帯びていく……。
「つらい」「わからない」「なんとなくしんどい」——
そんな言葉でもいい。
その先から滲み出た声に、自分がいちばん最初の聴き手になる。
書きながら、私は少しずつ自分に近づいていく。
やさしい呼吸を取り戻すように。
ときには思いがけない記憶や、小さな願いが顔を出す。
書くというのは、心の奥に散らばった欠片をそっと撫でて、「ここにいていいよ」と伝えるような行為なのかもしれない。
それらは、いわば「私のための対処法(コーピング)」と言えるのかもしれない。
日常の中にある、ささやかな手あて。
コーヒーを丁寧に淹れることも、朝焼けの色や空気を猫たちと味わう時間も、部屋を掃除するのも、洗濯物のやわらかさに指先を預ける瞬間も、私を少しだけ整えてくれる。
だから私は、大きな嵐の中で立ち尽くすよりも、その場にしゃがみこんで、空を見上げる時間を選べる。
まるで泣きたいような夜も、間接照明だけにしてからキーボードを触れば、心の片隅に、明日へつながる小さな道が見えてくるような気がする。
心の深い傷や、大事にしていた価値観がひっくり返るような瞬間の後に訪れるのは、取り戻したり回復もあるけれど…
その先では変容(トランスフォーメーション)と再生(リ・ボーン)という、本能が求める営みに、もし、向かっていけるなら…
戻れないという事実は、時に冷たく感じられるかもしれない。
でも、戻らなくていいと思える日が、いつか… きっと来るかもしれない。
その日は、静かに、けれど確かに、こころの中で新しい風が吹き始める合図かもしれない。
「戻れないからこそ、今の私がいる」
そう言えるようになるまでには、辛ければ辛いほど ……
とてつともなく、途方に暮れるような時間や年数がかかるかもしれない ……
その一歩には、自分自身のリズムと、生きてきた軌跡が刻まれている。
空に目を向ける気持ちのゆとりが、ほんの少しでも戻ってきたら、それは、新たな日々の扉が静かに開き始めた合図かもしれない。