「自分に厳しく、他人に優しい」or「自分に厳しく、他人にも厳しいか」
後者の場合は、言葉にしきれないほどのイラつきも絶えなくなり、不機嫌な状態が続きやすくなる場合が多く見受けられます。
師弟関係のように、「自分に厳しく、他人(弟子)にも厳しい」ように見えて、内心では弟子に優しい・温かいでしたら、そんなことはないかもしれません。
確かに、まず、やってみないと分からないことは、沢山あります。
何かを身に着けて習得していこうという時に、「守・破・離」というプロセスは重要です。
そのようなことではなく、例えば、家庭ひとつとっても「あるべき論」を強く振りかざし過ぎると、下手すると、なんだか軍隊?のようになってしまう、知人のケースも見受けられました。
極端な例かもしれませんが、「常に、家の中はホコリ1つない、衛生的に優れた環境にしていなければ、ならない。日々の過ごし方は、こうでなければ・・・」などでしょうか?
不機嫌な状態が続くと、パフォーマンスは下がります。
そうして、本当は出来ていたはずのことも、次第に出来なくなっていく状態が起こりかねません。
自信は喪失していくばかりで、それなのに押し付けられるという高いストレス状態となり、身体にも影響が出てしまうかもしれません。
このようなスパイラルにハマってしまうと、余計に、もどかしさやイラつきがかさむことになります。
「落とし穴」とは
本当は先に進んでいけたはずなのに、進んでいけなくなるように仕掛けられているから「落とし穴」ですね。
「落とし穴」があるなど思わないから、落ちるわけです。
そこにあることが分かっていたら、避けて通れるのではないでしょうか?
「こんなはずではなかった・・・」と、ため息やグチの毎日。
イライラだけでなく、怒りの感情の落とし穴にハマってしまうこともあるかもしれません。
お酒を飲んでも 解決はされない
悪酔いするし 辛くなっていく一方
カラオケで叫んだって 明日が来るのが辛い
どうしたらいいんだろう?
なぜ 思い通りに行かないことばかりが続くんだろう?
なぜ こんなことになってしまったんだろう?
なぜ? なぜ? どうしたら?
わからない・・・
誰かができること・つくりだせる価値・するべきと思っていることでも、人によってタイプに違いがあります。
得意・苦手、向き・不向き、好き・嫌い ・・・ 色々とありますよね。
人によって違うわけですね。
それを環境や立場などの外的な理由から、型にはめようとしても、はまらないのには、何かしら理由があります。
人の心は、唯一無二、オンリーワンです。
有名な歌詞にもあるからと、便乗して言っているのではなく、本当にそうだと実感します。
どのような理由であれ、決して、誰かが好き勝手にして良いものではなく、出来ることでもありません。
人を型にはめようとする前に・・・
その「型」が、その人にとって適切なのかどうか?
その人のポテンシャルを、本当に発揮させられるものなのか?
様々、考えられる要素はあると思います。価値は、固定観念で決めつけてしまえるものではありません。
例えば、1つの業務で実績を挙げられなかったとしても、それが、その人の価値ですか?
○○であるべき ・・・
本当に、それだけが答えでしょうか?
まず、その人を、ちゃんと見ていますでしょうか?
それとも、その人を取り巻いている周辺・環境(そとづら・体面・世間体)を見ていますか?
人も周囲も環境も、いずれも見なければならないものですね。
そうは言いましても、「あるべき」を振りかざして理詰めで行けば行くほど、相手の心の機微は抑圧されて埋もれていきます。
そこに、「成長」や「成功」に向けての「効果」は望めるものでしょうか?
理詰めで「効率良く」「都合よく」動かそうとしているだけのことはないでしょうか?
例えば、相手そのものではなく、環境やチーム体制(構造)を変えることで、スッと解消することはないでしょうか?
または、ご自身の接し方・伝え方を変えることで、スムーズに進めていける可能性はないのでしょうか?
トライ&エラーのプロセスですね。
「あるべき論」から離れられない隠れた理由
それでも、どうしても「あるべき論」から離れられないとしたら、それは何でしょうか?
「あるべき、をしてくれれば認める、従ってくれれば嬉しい」と見ているのかもしれません。
それが、その相手にとって、強いストレスとなったり、本来のポテンシャルを抑えつけてしまうとしたら・・・。
本当に、共に喜び合えるものはあると言えるでしょうか?
もし、誰かを我慢させた上で得られた喜びだとしたら、とても利己的なものです。
「あるべきを認めないなら、ダメ」では押し付けになってしまいます。
そのようにしてしまうケースの要因は、自分の中に潜んでいたりします。
自分自身を好き・認められる感覚を、誰かに求めている限り、「あるべき」通りにいかないことがあると、憤りに繋がりやすくなると思われます。
他人は、自分の自己承認欲求を満たすための、都合の良い道具ではありません。
例えば、スピード離婚をするカップルに、「寂しさや自己満足から結婚したけど、思っていたのと違うから」というような要因が多いのは、自己承認欲求をパートナーに求めすぎていたからなのではないでしょうか?
自己承認欲求を満たしてくれるから嬉しいという気持ちは、誰でもあることと思われます。
ですが、押し付けてまで求められると、だんだんと抵抗感が芽生え始めるのが心情だったりします。
何かしら、思い通りに行かないことに囚われるほど、心が振り回されます。
振り回しているのは、他の誰かのように思えていたとしたら、それは「転嫁」なのではないでしょうか?
振り回しているのは、他人ではなくて、ご自身の固定観念「あるべき」への囚われからです。
そうなると相手のことを見ているようで、段々と見えなくなっているというドツボにはまりやすくなります。
視点としては見ているようでも、「あるべき」優先の曇りガラスを通しているから、どうしたって、よく見えないわけです。
自分を好きになれていない穴を、他人に求めたって、どこかで歪みがでます。
その前に大切なのは・・・
自分で自分を好きでいること。「あるべき」に逃げない・ごまかさないこと、ではないでしょうか?
生きていく以上、社会・コミュニティのルールは守らなければなりません。
世間を見て体裁も必要なときもあるでしょう。
ですが、もし、それ以上に「あるべき論」で苦しくなっているとしたら、少しだけでも立ち止まってみるのも良いと思います。
あまりにも「現実」に無理に合わせるということは、「心に対する無茶」をし続けていることになります。
「現実」は捉え方次第で、いくらかは変えていけるとは考えられないでしょうか?
他人を変えようなどとする前に、環境や位置、接し方などを変えられないでしょうか?
人に求める前に、まず「自分を生きていく」ほうが、何百倍も大事だと思います。
「自分の心の声を聴いて生きる!」なら、現実においてもブレにくく、しなやかに強く進んでいけるはずです。
他人が認めてくれようと認めてくれまいと、自分がベストの状態なら問題ないと捉えられます。
頭で考えるだけでは、壁の前で堂々巡りしてしまうケースも少なくありません。
理屈だけで、どうこうできるものでもないでしょう。
「心から感じる気づき」が、もっとも、ご自身にフィットした方向性を見い出していく素です。
その気づきを得ていただくための、キッカケにしていただけるのが「傾聴」です。
クライアント様が、ご自身の心の声を聴くことが難しい時、その代役として、鏡のような働きをすることが、「傾聴」する側の役割の1つとしてあります。
「忙しい時だからこそ、聴いて欲しい」ということもあると思います。
それは、心が何かの声を挙げている・・・ということとは言えないでしょうか?
心の声を、お寄せいただければ幸いです。