「○○であるべき」・「○○しなければならない」
このような言葉が、まるで、何かのお題目であるかのように使われる毎日・・・だとします。
それが、そう言っているご本人だけでなく、関わっている周囲の人間の全員が・・・
楽しめていけるのでしょうし、抑圧ではないのかもしれません。
前進のための目標であったり、達成感を得られるものであるのなら、エネルギッシュな強さも感じられます。
最高の充実感とは・・・
単に「楽しければ、それで良い」というだけではなく、「苦しくても楽しい : 苦楽しい」にあると言われています。
もし、逆に、このことが・・・
ご自身や周囲の心を縛り付け、苦しめていたり、まったく楽しめていないとしたら、心の声とマッチしていない、ということはないでしょうか?
それを周りにまで振りまいてしまって軋れきが生まれたりして、より苦しくなっているというケースも聴きます。
物ごとの捉え方にも大きく左右されますね。
「寝ていても、黙っていても楽して儲けたい」や「自分さえ良ければ、周りはどうでもいい」、「プラスチックは鉄である(なんのこっちゃ)」などでしたら、単なるワガママや現実逃避、認知のズレではないでしょうか。
そのような自明の理なら、「そのように捉える” べき ” ではない」と、私でも思います^^
今回の記事では・・・
その「あるべき」が、個人の感情や好みなどに固執して出ている場合について記してみます。
例えば、どのようなものが想像されるでしょうか?
「常に、聖人君子でなければならない」
「どんなことからも・・・ 逃げずに立ち向かっていかなければ、ならない」
「どんなときでも・・・ プラス思考で。ネガティブ発言を、絶対にしてはいけない」
「どんなときでも・・・ 規律正しく模範でなければ、ならない」
「どんなときでも・・・ 明るく笑顔でいなければ、ならない」
「どんなときでも・・・ 嘘をついては、ならない。例え、思いやりのある、優しい嘘でも」
「どんなときでも・・・ 早寝早起きで家事をしなければ、ならない。高熱を出していても」
しまいには・・・「寝るときまでネクタイをしていなければ、ならない」はないでしょうがww
「どんなときでも「素直」で「誠実」なければ、ならない」と言いつつ・・・
「素直」や「誠実」どころか、「従順」や「服従」を求められるような、実にやっかいなケースもありますね。
上記にあげた例は分かりやすく極端に書きましたが、多かれ少なかれでも向けられる方は、たまったものではありません。
歪み、いつかは壊れてしまいかねません。
何かしら、これらのようなことを、絶対的に正しいことかのように振りかざして壊していく・・・「あるべきクラッシャー」さん。
パワハラの自覚がない上司、スタッフの離脱が続きやすい企業、スピード離婚の夫婦・・・。
理不尽なモンスターやクレーマーに化ける等・・・。
何かしら、これらの背景に見受けらないでしょうか?
仮に、強引にでも論破できて屈服させられたら、それで本当に心から満足できるのでしょうか?
「あるべき」に囚われるほどに、他人が許せなくなります。
しまいには、その「あるべき」が社会正義のようにすら?思えてくるかもしれません。
例えば、民間企業に対し「お客様を選ぶべきではない。選ぶのは悪」という意見もあります。
もし、料金を支払わない・法外な要求をされる・ルールを守らない・何かしらの営業妨害をされる、としたら「お客様」ですらないという考えもあるわけですね。
この考えは、健全な運営を続けていくためには必要なことであり、このことは、本当に真摯に求めてこられるお客様のためにあり、そのために働く人間のためでもあります。
それらを「納得できない(から従え)」というのは、一部の理不尽な声と言えるわけですね。
まるで、全体の民意かのように声高に「みんな、そう思いますよ」などの詭弁を弄して、周りはドン引きしている等々・・・。
声高に文句を言えば言うほどに受け入れられず、フラストレーションや不平不満が加速してしまうのではないでしょうか?
「自分に厳しく、他人に優しい」or「自分に厳しく、他人にも厳しいか」